当ブログ、Tiira’s Lifeの運営者、妻側のカオリです。
元々は個人でやろうと思って2年ほど前に立ち上げていたこのブログなんですが、完全に勢いで、夫婦用にリニューアルしました!
と言っても、個人でやっていてもなかなか更新できていなかったので、何かを変えたいと思ったのがきっかけです。
なのでURLは夫婦のアカウント関係ないものになってしまっていますが、すみません。
とりあえず、なんの取り柄も、特技もない私だけど、大まかに自分の生い立ちを振り返ってみたいと思います。

神奈川86年生まれ、東京育ちの典型的な都会人なひとりっ子。
友達とわいわいするのも大好きだけど、一人遊びも大得意。
幼稚園、小学生時代はただただ普通の食いしん坊女子でした。(ジャイ子並みに太ってた)

Contents
暗黒の中学時代。
ありがたいことに、公立なのになぜか進学校並みにみんな勉強をがんばる学年だったため、周りの影響もありめちゃくちゃ勉強していました。
部活はというと、“入部する子がやたら多かったから”ってことと、母が「バスケ部に入ったら背が14cm伸びた」といっていたのを真に受けて、とりあえずでバスケ部に入部。
めちゃくちゃ不純な動機で入部したので、案の定ちっとも楽しくなく、ハブにされるのが怖くて辞めれないまま2年半。(中学生の時とかよくあるやつ笑)
練習試合も、当たり前だけど土日に開催されるため、その頃から
“これで土日つぶれちゃったらいつ休めるんだろ?”ってじわじわと思っていました。(かわいくない子供。笑)
この部活では上下関係も厳しくて、先輩や顧問の先生のために生きる日々。
なんなら、いちばん期待していた背も伸びなかった。。
本当に子供の頃は“人の目を気にして生きてたな”って今になってよく思います。
世界が狭すぎました。
バスケをしていて良かったことといえば、ルールがわかるようになったので、スラムダンクを読むのが最強に楽しい!!!って思えるようになったことのみ笑。
あれ名作ですよね??
結局、“みんなに話がついていけなくなるのが怖い”、“ただ受験に有利になるから”と、ダラダラズルズル過ごしていただけなので、引退試合まで気持ちが持たず(もちろんスタメンとかじゃ全然なかったので)中2の終わり?くらいにスパッて辞めちゃいました。
辞めてみたら、んもうめちゃくちゃスッキリ!!
なんで今まで自分の気持ちを押しころして、受験の推薦書のたった一行のために、自分の時間を割いてきたんだろうって思ったし、その分勉強がんばればいいやって素直に思えて、気持ちに余裕ができ、きちんと受験勉強に備えることができました。
あの時、素直に自分の心のままに従ったことは間違ってなかったなって今でも思います。
そんな思春期まっただ中には、学年の男子が反抗期の絶頂で、ベタだけど窓ガラスもない時あったし、教卓も粉々にこわしてたり、挙げ句の果てには私の外靴も燃やされたり・・・!
そんなめっちゃ無意味でバイオレンスな狭い世界が現実でした。
それが嫌すぎて、決意します。
その時の反抗期男子たちとは絶対にちがう道をいき、楽しい生活を生きていくぞ!!と。
その男子たちのおかげ?もあり高校受験のためにさらに勉強をがんばることができて、第一志望も推薦で合格!(唯一自分の誇れるところ笑)
高校は家計の事情もあり、絶対に都立高校に行きたかった!髪も染めたかった!笑
晴れて幼き私は、自己満ではあるけど、“自分の行きたい道に自力で行く”という夢を叶えたのでした。
人生で一番楽しすぎたバラ色高校時代
達成感に満ちあふれて、楽しみにしていた高校生活♡
友達ができるかな?とか不安だったけど、そんな心配もつかの間で、今となっては一生の仲間と呼べる心友たちにも出会えて、最高な3年間になりました。

大流行していたギャルにもなったし、日サロにも通っていました。(楽しかったけど黒歴史)
やっぱり今考えてみても、あの時
- 受験をがんばって自分の行きたい道を自分で選んだこと
- 学生時代ならではだけど、成績を上げることで選択肢を持つこと、視野を広げること
これらを達成できたからこそ、本当に今があるな〜って思います。
世の中にはもっとがんばっている人がたっくさんいますが、自分の中でこの経験は大きな自信になりました。

課題に、バイトに、スーパー忙しかった短大時代
バラ色でスーパー楽しかった高校生活にも、ついに終わりがきます。
そう、またもやくる受験。今度は大学Ver.
当時「オレンジデイズ」が流行っていたので、その影響もあり4年制大学にいこうという人も多かった気がします。
私も、もちろん大好きなドラマでした。
でも、暗黒の中学時代から解き放たれた私は、好きな高校に入ることが目的で勉強してきたので、楽しすぎる高校生活に入ったとたん、恥ずかしいことに一切勉強しなくなっていました。
成績は一気に赤点のちょい上ぐらいまでしか取れずギリギリ。このままだとやばいな私…と思いつつも、友達との楽しい楽しい毎日の誘惑の時間に勝てず、気づけばあっというまに高3の春。
あの時得た自信はどこへ??
自分には選択肢など、なくなっていたのです。
遊びまくっていた当時の私たちも、さすがにみんな話題は卒業後どうするか、でもちきり。
これまでみんな同じ授業を受けて、同じテストを受けて過ごしていたのに、ついにもうこれからは個々で自分の向き・不向きを考えて選択していきます。
自分には何が得意で、さらに追求したいことってなんだろう…?
職業につなげるために、何を勉強するの?
こんなにたくさんある専門学校、短大、四大から選ぶ?!?!
すっかり選択肢がなくなった私は、もう頭のなかが大パニックでした。笑
考え抜いた結果、そういえば子供の頃から家にあったインテリアのカタログをみるのが好きだったな、という理由だけでインテリアデザインの学校を探し始めます。
本当は、インテリアをデザインするのではなく、空間のコーディネートに興味があったのだけど、その分野の学科の探し方がよく分からずでしたが、そんな中ある大学を見つけました。
新宿にある、文化女子大学の短大で、生活造形学科。
どうやらこの学科なら、私がそのとき唯一興味のある分野が授業であるとのことで、それがわかってからはその短大1本で絞り、他は考えず受験を進めました。勉強もできていない当時の私からしたら、今思うとかなり危険な賭けだったなと思います。。
そして運よく、その短大にAO入試という選考方法で、晴れて合格をもらえました。
AO入試とは、大学の入試方法のひとつ。
大学の入試管理局による選考基準に基づいて、学力試験を課さず、高等学校における成績や小論文、面接などで人物を評価し、入学の可否を判断する選抜制度。
米国で経費節減と効率性を目的として制定され、日本では1990年に慶應義塾大学が導入し、各大学に拡充している。
引用・・・Wikipedia
学力にまったくの自信がなかった当時の私には、本当にありがたい入試の制度でした。
私立になってしまい、母親には学費の面では本当に迷惑をかけたな、と思っています。(今もですが)
がんばらなきゃ!と意気込んでいたのもつかの間、入学早々この学科の洗礼を受けることに。
それは一体何かと言うと、最強の課題の嵐。
“短大は、4年かけて学ぶことを2年でぎゅっと凝縮して学ぶから忙しいよ〜”とはよく聞いていたけど、まさかここまでとは。
私の学科は、平日みっちりと1限から5限まであり、その各授業にたいして膨大な課題、簡単にいうと宿題がだされます。
当たり前ですが各授業の課題の提出期限はそれぞれが翌週の授業まで。
課題の制作に明け暮れて、徹夜はザラ。
それでさらに、遊ぶお金もしっかりと欲しい私は、5限の授業が終わってからの19時から24時まで、地元の駅の飲食店で週2〜3ほどアルバイトもして、本当にしんどい毎日でした。
通学中、山手線で立ったまま寝ていました。笑
しかも、自分の考えたインテリア空間のコーディネートをするために、イメージするそのお部屋を模型として小さく作成するという、細かい物作りや創作が大の苦手な私にとって、これが一番しんどかった。
しかも、その模型もソファやらテーブルやらただ小さく作れば良いというものではなく、建築用のジョーギで1/10000できちんと測って作るのです…(建築やってる人からしたら当たり前か笑)
それが本当に無理で無理で、気づいてしまったのです。
“あっ私向いてないな”と…。笑
ひとりっ子な分、一人で色々と試行錯誤しながら何かをするっていうのは好きだったけど、一生の仕事にするということを考えると、厳しいものがありました。
みんな就職時期に進むにつれて、家具のお店に就職する人や、同じ大学の4年制の方に編入してさらに学ぶっていう選択肢をとる人もいましたが、そんなことまるで私には考えられず、挙げ句の果てにはそのときインテリアも好きじゃなくなってしまって(今は一周まわってまた大好きです♡)、またもや“自分が何をしたら良いのか分からない”というモンモン期に突入。
課題も必死にがんばってきたけれど、本当にただこなすだけの毎日で頭には全然入っていないし。
ただ単位だけは落とさないようにして、しっかり卒業さえすれば良い。ひたすらそんな風に考えていました。
初めての社会人生活
結局、就活はせずに短大生活を終えた私は、無事卒業して、ボディケア用品も扱う某化粧品会社のスタッフとして3月からアルバイトを始めました。
そこの研修が、想像していた以上に本当にきつくてびっくり。
言葉遣いも、ほぼほぼ直されたことを覚えています。
今となってはもうなかなか注意してもらうこともない年齢になったので、早いうちに習えてよかったなと思っています。
そこで習って一番衝撃だったのが、
何かを指すときに「〜のほう」とは言ってはいけない。
お金を受け取る際に「◯◯円からいただきます」の“から”はNG。
今でも、他のサービス業で耳にするたびに、使っている人がいると気になるようになってしまいました。笑
初めて、飲食店とはちがう雰囲気の場所での職場。
がっつりおつぼね的な方もいて、人間関係も意外と女社会で殺伐としていたなぁ。
今思い出してみると一番、職場環境は悪かったような気がします。笑
メンタルがまだまだ若くて弱く、世渡りもあまり上手ではない私は、4ヶ月で退職を決意。
東京での時給なのに、たかが10年前で¥850円スタートって…しかもこの業務内容でってちょっとやってられない。
店長はすごく良くしてくれたので少し心苦しかったのですが、それよりもそこにずっといる自分がまったく想像できなかったので、後悔はしていません!
そのあと、飽き性なのもあってか、某アパレル、某携帯会社、某旅行会社といくつかのまったく違う業種で転職をくり返して今に至ります。だいたい、3年くらいごとに変えてしまっていたかも。
ほんと、一つの業種で新卒から長く働いている人、尊敬します…
三度の飯より好きだった、海外旅行

そんなフラフラとした生活の中、とても好きだったのが海外旅行。
初めてハワイに行ったのは10才のときで、母親につれて行ってもらえたことから始まりました。
そのあと長くまた時間が空いて、高1のときにもつれて行ってもらい、
高校で出会った大親友ショーコも、子供の頃からハワイに家族で行っていたことから意気投合し、高校の卒業旅行に初めて、他の友達含めた4人でハワイに行きました。
アルバイトで貯めたお金と卒業祝い、お年玉を握りしめていざ出発!
それがまた開放感がやばすぎて楽しくて楽しくて!
みんなそれぞれの進路の入学まで時間があったので、卒業式の翌日から8泊で行きました。(今思ったらすんごいセレブやな、、、)
そこから、もうハワイの虜。
みんな、それぞれ環境が変わっても長い休みが取れるたびに、というかみんな無理やり休みをとって、こぞってハワイに行くように。
大親友のショーコとはもう何度も2人で行っているので、旅の過ごし方、行動や入るお店の優先順位も、心地いい状態がお互い話さなくてもわかるようになり、今でもあの時のハワイはやばかった!!と盛り上がります。
あの頃の経験は、もうなかなか実現できないけど、いつかまた絶対行こうねと話しています。
目標を持った方が絶対実現できる!そう信じています。またゆっくり行きたいね〜^ ^
旦那さんは沖縄人

そんな中、自分に転機が。
某アパレルを辞めた24歳の夏に、仲のいい友人5人で沖縄旅行に。(ハワイに行けない時はわりと沖縄に行ってました)
そのときの沖縄旅行がこれまたスーパー楽しく、もう最高!!と言いながら東京に帰ってきて、夢見心地のまま、いろんなつながりで湘南の海の家でひと夏のあいだ、働き始めました。
2ヶ月弱の期間限定。
am7:00からpm9:00まで12時間超えでほぼ毎日働きましたが、そのときのスタッフにも恵まれめちゃくちゃ楽しく、黒こげになりすぎた肌も、良い思い出で終了。
またもやフラつき始めた私は抜けガラ状態になり、やりたいことも特にないままふと気づいたら秋も深まる11月。
“あ、そういえば7月に行った沖縄ちょー楽しかったな!沖縄行こう!”
そう思い立ったら居ても立っても居られないタチなので、1人ですぐ航空券を予約し、なるべく安くおさめたいためホテルは那覇のドミトリー、チャンプルー荘に決めて滞在。
ペーパードライバーだし、1人でレンタカー借りるのもコスパが悪すぎるので、うろうろできる那覇にしか行きませんでした。ただ現実逃避できれば満足だったので。
1人だったのにも関わらずちゃっかり3泊し、それっぽいお兄さんに自ら声をかけ、徒歩で行けて安いおすすめのクラブを聞いたりして1人で夜遊びに行きました。(今考えたらすごい笑)
お兄さんオススメのクラブは、その日のエントランス料もレディースデーで無料、ドリンク代も無料(沖縄のクラブは泡盛とお水が割ってあるタンクがあらかじめ用意されているところが多く、それなら飲み放題なので)かかったのはロッカー代の¥100円のみ。笑
めちゃくちゃコスパよかった!!!
残念ながら、今はなくなってしまったそのクラブで、沖縄本島の中部に位置する読谷からたまたま遊びにきていた、3つ年下の今の旦那さんリョーヘイに声をかけてもらい(つまりナンパです笑)、当時LINEもなくガラケーだったのでとりあえず電話番号を交換。
人生初の一人旅に大満足して東京に帰ってからもこまめに連絡を取り合い、1ヶ月後に遠距離ですがつきあい始めました。
そこから4年半、遠距離でお互い東京と沖縄を行き来しながら、二人とも結婚も意識?はしていたので、東京とは別の場所に住んでみたい!という好奇心もあった私が、29歳で沖縄に移住しました。
夢にまでみた、地元とは別の場所での暮らし、しかも国内といえど南国。
旅行大好きでフットワークも軽くて、ハワイも大好きだったから似てるし!みたいな謎の根拠のない強気さで、自分で決めたこと。
私なら大丈夫!一人遊びも得意だし!寂しくなんてないない!
なんなら一人旅も沖縄したことあるし、これまでリョーヘイに会いに何度もきてるし!!!
そんな風に思っていたのに、29歳のアラサーにしてめちゃくちゃ大きな挫折を味わいます。
友達がいない場所でのスタート
まずは他でもないこれでした。
当たり前だろ!って思うかもしれないけど、当時は実感するまで全然わかっていなかったのです。
いつもの仲間と行く、楽しいことしかない爆笑の沖縄2泊3日。それとは天と地ほどの差があるということに。笑
沖縄についた初日、居住地を決めた読谷に着いた瞬間、あっ、ついに始まったんだ…っていう、後にも引けないモーレツな不安に駆られて、その瞬間めちゃくちゃ怖くなってしまいました。しかも、都内からいきなり村ってスーパーハードル高い。笑
しかも、そのとき車も持っていなかったので、交通手段は誰かに送迎を頼むか、時間通りにはこないバスを利用するかの2択…。正直、それだけでもうハゲる原因になりそうでした。笑
車もゲットしてからもネタはめちゃくちゃ満載だけど、一応、経験としてペーパードライバーを卒業できたのは良かったかな!(でも都内で運転できる自信はなし笑)
にしても、まったくの別世界から上京、移住してる人、本当にすごいことですよ!!!!都内にいたら地方の人なんてゴロゴロいるのに、まったくリスペクトできてなかったなって気付かされました。
移住当日は、ありがたいことに旦那リョーヘイ(当時はまだ結婚していませんでした)のご両親に那覇空港に迎えに来てもらいましたが、読谷までの道中、
「これからは、おかぁや義姉の言うことを聞き、何でも“はい、はい”と言いなさい」
そう言われた瞬間に、目の前が真っ暗になりました。(ごめんなさい笑)
今までさんざん自由にやってきた私にはとてもじゃないけど荷が重く感じて、“やばいところにきてしまった、羽田に引き返したい…”と思ってしまったのです。笑
その日から4年弱、リョーヘイはもちろん、いろいろな人の手を借りては自分で試行錯誤して。
人生初めての車通勤、文化の違い、人づき合いの距離感や難しさにもまれながら何とかやってきて、32歳の終わり際に、ここ東京にリョーヘイとともに帰還。
これからは、東京に来てくれたリョーヘイを支える番になり、後悔させないためにも、またゼロから試行錯誤しながら夫婦二人三脚でがんばっていきます。
目標は、自然やヒトが大好きなリョーヘイのために、“釣りがしたいなら、友達に会いたいなら今から沖縄行ってくれば?”と言ってあげられるライフスタイルを作ってあげること。
リョーヘイがそうしてくれたように、私もがんばらなくちゃ!!!
このブログも楽しんでやってくぞー!
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