こんばんは、Ryoheiです。
嘉手納町(カデナ)出身、読谷村(ヨミタン)育ち。
沖縄本島の中部にある町。川や海はもちろん。←沖縄なら、どこ行ってもあるか
目の前には、日本最大である東京国際空港(羽田空港)の約2倍もあると言われているKadena Air Base がある。(基地問題は面倒だから、今はやめておこうねぇ 笑)
てぃ〜らぐわ〜
小さな頃から、海人(ウミンチュ)のオジィに連れられて嘉手納漁港から漁に出ていた。
am4:00から、投網を持ちクバ笠を被ったオジィと58号線を歩く保育園児は、僕しか居なかっただろう 笑
ちなみに、“てぃ〜ら”というのは自分たちの苗字・照屋を家族で呼んでいる愛称のこと。
ぐわ〜は、沖縄では固有名詞の後になんでもぐわ〜をつける 笑
例:)おまえたち、天ぷらぐわ〜食べたか? 等

漁港に向かう道中、必ず通る苦手な近道があった。
なぜならそこは、いつも薄暗くコウモリがいっぱいいるからだ。
オジィいわく、マジムン(幽霊)もいっぱい居るらしい(なら、孫連れてそこ通るなよって感じさぁ 笑)
オジィは、霊能力もあるところがさすがって感じなんだけど、この話は長くなるから次にしよう 笑
そんな道中を歩き、やっと嘉手納漁港につくと皆モーターが付いた船を使ってる中、上の写真の通りオジィだけ唯一のサバニ(琉球列島で古くから使われてる漁船)漁師だった。
普通の船とは違い、翌日に雨が降ったりすると船内に雨水が溜まるので、バケツで雨水をすくい出す仕事から始まる。
ハイテクなモーターをよそに、伝統を守るオジィだった。
そのため、クイズ紳助やNHKの取材なんかが度々あり、地元じゃぁ軽い有名人だった。
冗談が大好きで、『ABC….』と『123…』だけ覚えたら生きてけるよぉ。が口癖でした。
鵜呑みにした僕がこんな感じ 笑

勉強机に向かってるのがにぃにぃ。下がme。笑
昔から母に、『あんた達、足して2で割りたい』と言われている。笑
初家出
小さな頃から、家庭訪問なんかではホントよく言われたのは『落ち着きが無い』でした。
今なお、あまり変わらず 笑
ADHDなのかもしれない 笑

そしてある日、母と喧嘩し低学年ながらに家出。
アメリカ人からもらった、コースターブレーキの不慣れなチャリで向かった先はもちろん…….
オジィの家だった 笑
4、50分かけて、ついたらなんと……
母に先回りされてたのだ(行動範囲バレバレ)笑
クソー!オジィと海行こうと思ったのに!とか思いながら、読谷(ヨミタン)に連行。
とにかく、外で遊ぶのが好きでテレビゲームなんかには無縁だった。
そんなこんなで今に、至る。 笑
中学時代
読谷村(ヨミタン)への引っ越しを機に、旧嘉手納ロータリーにあった上地流新城塾(空手道場)を辞め、とにかくジッとしてるのがイヤだった僕は野球を始めた。
これといって成績を残したわけでも無いが仲間に恵まれ、楽しくて中学まで続けた。
しかし中学からの上下関係が、しに(マジ)大変だった 笑
どんなに、先輩が遠くにいても大声で挨拶したり朝練は先輩方より早く来ないと……笑
今思うと、親もよく朝5時半とかに送ってくれたなぁと感心する。まぁ、あの時代なら普通だったのかもなぁ。
部活が、終わり近くの大城商店でフライドチキンを食べるのが日課だった 笑
今はもう、時代の流れと共に無くなってしまったがあれはソウルフードと言っても過言ではない。知る人ぞ知るフライドチキンが有名な商店だった。(リアルに、いつか復活させたいと思う。)レシピを、保管してる事を願う。
気付いたら、皆出席する程の学校が好きな少年になっていた 笑
そしてついに、TOKONA-Xに出会ってしまう。
元々、HipHop R&Bは好きで聴いてたが、このクセのあるフロウやリリックは衝撃的だったのを未だに覚えてる。
よく、タケルが持ってきたラジカセで大音量でウージ(サトウキビ)畑でRapしてたなぁ 笑
(影もないティーダジリジリー(太陽がジリジリ)してる所でよくやってたなぁと思う 笑)
いやぁ〜TOKONAは、死んでしまった今でもやっぱり未だに聴くよね。
超、短くすると毎日学校行って部活してチキン食って帰って、TOKONA聴いてRapして、休みの日は海に行き、釣りや泳ぎに行って、たまに羽伸ばして北谷か那覇って感じの、普通の野球少年だったなぁ 笑
写真見つけ次第UPしやす。
ヤッケ〜(ヤバイ)
僕は、たまに極度の優柔不断に陥る 笑
それは、高校受験で起きた。
受験当日、試験まで少し時間があったので、試験会場近くのローソンに大好きなスッパイマンを買いに行った。
購入する前に、急に腹痛に見舞われトイレにこもった。
ふぅ〜。
そして、スッパイマンを手に取りレジに並ぶとチラッと時計が見えた。
時間がない! 走れば間に合う! (汗)と思いながら会計をしていた。
すると研修中の店員、宮城さんが
『ポンタカード作りますか?』
僕は、『あ、はい。』
『あ、はい。』じゃね〜よ!!!! しにヤッケ〜っ!! 汗
そう、こんな状況なのに流れで『はい』と言ってしまい断ろうにも断れず、気付いたらポンタカードの説明を聞いていた 笑
頑張って接客をしている店員を見ると、未だに応援したくなる 笑
全力で走った結果、高校受験遅刻という前代未聞の事態をおかしてしまった。
皆の視線は、すごく冷たく未だに思い出すとヤッケ〜 笑
そりゃそうだ。
中学時代の、皆出席がここで崩れるというアホな話し。休み時間になると、先生に呼び出されるという。笑
案の定、第一志望の高校には行けず……でした。(妻に、どっちにしろじゃない?と言われた笑)
否めない。
しかし、第二志望の嘉手納高校に進学すると、保育園の時も一緒だった幼馴染みなんかも居たりで、結局のところ超楽しかった 笑

先頭の指揮官が僕 笑
ガラケーの画質が、時代を感じさせる 笑
僕らの制服はコレだった笑
入学してすぐに、再び空手を始めたのであった…..。
仲間
空手部に入部した高校生活、思いの外練習量が県内で一番だったため、朝練はもちろん九州大会当日に朝早くからあの嘉手納基地を、一周したり土日は午前午後と2部練があったりとあの頃は人生で一番体を動かしていた。
体脂肪は10ぐらいだった。今となっては考えられない体型だ 笑
遂に、昔からつるんでた友人に『空手部入って俺らとの付き合い悪くなったな』とボソッと言われ、こっちはこっちで頑張ってんだ!!と、しにワジワジ〜(超、イライラ)したのを覚えてる。
それ以来、あまり話しもしなかった日が続いていた。
僕にとって空手経験は、かなりのブランクがありほとんど素人スタートだったので、元から得意だったマラソンだけは誰にも負けない様にし、いつも練習相手は県内無敗の神谷 嘉亨だった。
入部当初から、彼に噛み付いてたので彼は僕の事ウザかっただろう 笑
その努力もあってかレギュラーに食い込み、大会にも出れる様になった。
そして春季大会、団体戦5vs5での先鋒(1番目に戦う選手)に抜てきされた。
その対戦相手がなんと、大きくは言えないが僕が高校受験で落ちた第一志望校で、まさかの大会会場までもがその高校の体育館だった 笑
若干、ココ受かってたらあの可愛い子と付き合ってたんだろうなぁとか考えた 笑
ギャラリーに、友人達が多かったので謎にいつも以上に気合いが入った 笑
そのお陰もあり、その試合はなんとか1人で全員倒した 笑
春季大会は、惜しくも準優勝だったが空手部に入部して、初めての達成感だったのでそういったのが今も糧になっている。
そして、今も忘れられない事件がある。
冒頭でも話した、昔からつるんでた友人が『高校を辞める』と周りから聞いて知ったのだ。
それを知った僕は、大会前なのに居ても立ってもいられず、学校を辞めるのを止めようと
『あにひゃー(アイツ)も呼んでいつもの公園に夜中12時集合で飲むよ!』(良くない事だがこれがいつものスタイルだった)
と友人達を集めたのだ。
言い出しっぺの僕は、残波の一升瓶(泡盛)片手に氷を持ち、忍び足で家を後にしたのだ。
すると、そこで事件は起こった 笑
前から、黒塗りの車がゆっくり走ってくるのだ。いやいやまさかやぁ…..と思いながら、いつでもダッシュできる様に身構えていた 笑
どんどん近づいてきて僕の横に差し掛かった瞬間!!
ガチャッ
ダッシュで、逃げようとすると!!
運転席と後部座席のドアが開き、民家の塀との間で身動き取れず挟み撃ち(イメージ出来るだろうか 笑)
そして中から出てきたのは、紛れもなく覆面の警官だったのだ 笑
日頃から鍛錬に鍛えられた足腰を活かせず御用 笑
後部座席に座らされ、隙を見てドアを開けようとすると…….!!
あの時ほど、チャイルドロックに感心したことは無かった 笑
『完敗だ』
こんなとこで足止めくらってる場合じゃないのに!
とか思いながら、家に着いた 笑
覆面警官が、ピンポーン♪
すると、出てきたのは風呂上がりのタオルを巻いて上半身裸のニィニィ 笑
(せめてTシャツにパンツで出れやぁと思った 笑)
そう、よりによって家族で一番の天敵であるニィニィが出てきてしまったのだ 笑
ニィニィは警官の言う事を何も聞かず、警官二人に取り押さえられながら一升瓶を持った警官を見て全てを悟ったのだろう…….笑
次の瞬間、飛び蹴りをお見舞いされたのだ。
警官は、俺を殴るニィニィを必死になだめる
そう、もはやカオスだ 笑
あまりのうるささに、おとぉおかぁも出てきて場は収まった 笑
これは、未だに友人達と家族の間では笑い話だ 笑
まぁ、そんなこんなで友人には僕の熱い気持ちが伝わり退学は免れたのだった 笑
ただ、代償はデカかった 泣
深夜徘徊という事で、停学。
そして、部活活動停止。
大会出場権剥奪。
色んな人に迷惑かけて、責任をとって空手部を辞めようかとも考えた。
でもその時の、キャプテンと仲間にはホント助けられたなぁ。
まぁ、そいう事もありながら団体戦では、3年間2位で1位はとれなかったけど、個人は県でベスト8そして神谷 嘉亨が県内無敗で1位を貫いてくれた。
それだけでも、3年間続けた甲斐があったなぁ。
この仲間じゃなきゃ続けれてなかったなぁ。
ホント感謝。
そして、皆それぞれの道へ…………..
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